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私と天理教

【私が生まれた日】

 

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私は、生まれつき身体に障害があります。

左の目は、あまり見えません
左の耳は、全く聞こえません
左の手は、手首から先が変形しています
左の肺は、ありません
左の腎臓は、ありません
心臓が肥大しています

私が生まれたとき、
母は、自分の子どもに障害があると知って
子どもに対して「申し訳ない」という思いから
おっぱいをあげる度に、泣きながら
「ごめんね、ごめんね」と謝っていたそうです。

口唇口蓋裂になっており
おっぱいをあげても、吸うことができず
何度も手術をしていました。

そんな泣いてばかりの母の姿をみて、
父は、
「そんな風に育てたら勇は可哀想な子になってしまう。
俺たちを選んで生まれてきてくれたのだから、
ありがとう、ありがとうと育てさせていただこう!」
そう母を励ましながら育ててくれました。
そんな温かい2人の親に育てていただきました。

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そして私には6人のきょうだいがいるのですが、
このきょうだいも私に障害があっても
障害を感じさせないように支えてくれました。


【学生時代】

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私は、小学校、中学校、高校と、
いわゆる普通学校に通っていました。
この結構な身体を貸して頂いてるおかげで、
クラスメートと同じ教室で授業を受け、
体育や部活動もさせていただきました。
鉄棒、自転車、縄跳び、リコーダー、水泳と、
片手が不自由では難しいと決めつけてしまうようなことも、家族の協力のおかげで出来るようになりました。
このように、私の可能性を広げてくれたのは、
親が普通学校に通わせてくれたおかげです。
周りには、当たり前のように出来る人ばかりだから、負けず嫌いの私は、それに追いつこうとする。
普通に生活を送るだけなら、
障害がある身体であることは、
不幸だとか劣っているとは感じない。
それどころか、
出来なかった事が出来たときは、大きな喜びになります。

かつて、親に言われたことがある。
「あなたは、
小学校低学年までは笑顔で溢れていたのに、
高学年になって笑顔が減ったわ。」
笑顔で溢れていたときは、
無邪気で、喜びがいっぱいだったように、
笑顔がなくなったのには原因がある。

一つは、高学年になり思春期を迎え
”人の目”というのを気にするようになった。
自分という存在を意識しはじめ、
「障害の有無」「見た目」の違いから
「私は、みんなと違う」と感じました。

そしてそれをなによりも決定づけたのは
一部のクラスメートから、
障害や見た目をバカにされ、
言葉や暴力で、イジメられたのです。

「ガイジ」…(障害児の害児から)
「しんしょう」…(身体障害者の身障から)
「お前の顔や左手はおかしい」

といった差別的な発言をされても、
自分でも自覚しているわけだから
何も言い返せないのです。

暴力といえば、
加害者は、無口で抵抗しない私に対して、
暴力をふるってくるのです。
その時に勇気を振りしぼって「やめて」
一言いえたなら変わったのかもしれない。

時には、
私が泣き出すぐらい酷いことをされましたが、
今では、あまり思い出せません。
なぜなら、どうしようもできない現実を
「忘れる」という方法でしか対処できなかったからです。良い思い出も、悪い思い出もあまり覚えていません。

そして、加害者は必ず一人ではない。
人数が増えれば、その分だけ受ける傷は大きくなり、
小学校のときは、何度も自殺を考えました。
イジメによる自殺のニュースをみる度に、
「これが自分だったら…」
中学生になって、
小学生のときイジメてた加害者が
中学校でできた私の友人に言うのです。
「こいつ(勇)はね、
小学校のとき俺がイジメてたんだよ」
その時はじめて、
加害者にイジメの自覚があるのを知った。
暴力などの身体的なイジメがあった高校のときは、
加害者に対して殺意を抱いたことがある。

「私がいなければ」
「あいつさえいなければ」

その葛藤をずっと抱えていました。
しかし、
何故それを実行に移せなかったのかというと、
やはり「家族」の存在が大きかったからです。
家は、天理教の教会、
学校が終わり 家に帰ってくれば
親や信者さん、必ず誰かが居るわけです。
だから、寂しさを覚えることもなく、
学校で傷ついた心を、
家(教会)で癒やしてもらえたのです。
その他にも、バレボールに熱中していたこと、
顔や身体が見えないインターネットなど
支えになったものは、いくつもありますが、
そういった支えが大きかった分、
傷ついても倒れなかったのだとおもいます。

親には心配をかけたくなかった。
私は、小学校から高校まで、
様々な場面でイジメを受けましたが、
そのことを親に話したことはありません。
それは、物心がついたときから
私が生まれたときに障害があることで
たくさん涙を流し、謝っていたのを知っていたからです。
なりよりイジメられていることを知られるのが恥ずかしかったからです。
ですので、不登校になったこともないし
学校をサボることもしませんでした。

「人は、人に傷つけられ、人に支えられる」

どんな苦難にぶつかっても、
家族や友人など、
自分を「支えるてくれるモノ」があれば、
たとえ心が傷ついて、不安定でも
その支えで生きていけるんだと感じます。


【空白の3年】

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私には、高校卒業後に空白期間が3年あります。
それは、障害があることで受ける偏見や差別に耐えられず、心が倒れていたからだ。

先程、学生時代にイジメを受けていたと告白しましたが、
イジメというと学校、会社と何かしら
グループに所属することで発生することがほとんどです。
しかし、私が受ける偏見や差別というのは無差別です。
いつ、どこで、どのように起こるのか予測できない。

ある日、散歩をしていると、
前方から見知らぬ少年2人組が近づいてきて
私の顔や身体を見るなり、

「ねぇねぇ、あいつの顔見てみろよ(笑)」

「顔(手)が曲がってるぞ(笑)」

左右対象ではない顔や、
変形した左手を面白おかしく真似し、
隣の友人と嘲笑っているのです。
知り合いなら「やめて」と言えたかもしれない。
しかし、相手は今さっき顔を合わせたばかりの他人です。
そして、相手が一人ということはない
2人以上、集団から受けることが多い。
それでも自分の顔や身体が、
人と違っているのは自覚しているから、
何も言えないし、何も出来ないのだ。
この怒りや憎しみ哀しみ、
もどかしさが入り混じった感情は、
一体どこにぶつければいいのだろうか。

そんなことが立て続けに起こると
「きっと、私が生きてる限りずっとおこる」
と、これから先の人生に絶望してしまったのです。
いっそ誰にも嘲笑われない
存在(障害)を否定されない
家という空間に引きこもっていようと思いました。
やることといえば、
インターネットにゲーム、テレビ…
そこに生身の人間はいません。
最初は、好きなことをやってるから楽しい。
しかし、それが1年、2年、3年と
時がたつにつれ不安や焦りがでてくる。
同級生は、大学生活や就職をしているなかで、自分だけが立ち止まっている。
そこに、明るい未来や希望は無い。

ひきこもってるといっても、
その家は天理教の教会です。
毎日、やりたくない、やる意味のない
「おつとめ(神様と向き合う時間)」をつとめるのは苦痛でしかありません。
同じ30分を過ごすなら、
自分のやりたいことをしている方が楽しいし、
親のいう
「身体は神様からの かりものである」
という天理教の教えに憤りを覚えました。
その、かりものの身体のせいで、
どれだけ俺が苦しんでいるんだ!
「陽気ぐらし」なんていうけれど、
そのうちの一人の「陽気ぐらし」を妨げてるのは誰なんだ!と
神様も、家族も嫌いになっていました。

「この状況から抜け出したい」

この先ずっと家に引きこもっているわけにはいかない。
給料が少なくても良い
とにかく外にでて働こう
思い切って外に出てみる。

「…あれ?息が苦しい」
道で すれ違う人の視線を感じる度に、
冷や汗、めまい、過呼吸、
倒れるんじゃないかという不安が襲う。
パニック障害を患っていたのです。

抜け出そうとする気持ちはあっても、
身体はいうことをきかない。

こうなってしまったら薬に頼るしかないと思い
家族には内緒で近所の精神科に通い、
精神薬を処方してもらいました。

・抗不安薬(エチカーム錠0.5m)
・抗うつ剤(サインバルタカプセル20mg)

薬は凄い。
飲んだら今までの症状が嘘のようにスッキリ治まったのです。
しかし、そううまい話ばかりではない。
良い面がある分、副作用があるようで、
眠気、思考力・判断力の低下などがありました。
そしてなによりも薬がなければ発作がでる。
この薬と長い期間付き合っていかなければならないことを考えると恐怖を感じました。

なんとか薬に頼らなくても発作がでないようにできないかと悩む
考えた末、たどり着いたのは
「症状(発作)に慣れる」という方法だった。
どんなに倒れるんじゃないかという不安が襲っても、
実際に倒れるということはない。
だから、あえて発作がでる駅の構内や電車にのって、
今日は何分耐えられた。明日は何分に挑戦しよう。と、少しずつ克服していった。
症状はみるみる良くなっていったわけだが、
完全に治ったとはいえなかった。


【修養科】

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そんな時、従兄弟の母から
「息子が修養科に行くから一緒に行ってくれないか」
と、お願いをされたのです。
私は天理教が好きではなかったのですが、
「その修養科に行ったら、何かが変わるんじゃないか」
と思い、社会復帰をするために入ったのであります。

修養科という場所は、
天理教をまったく知らない人から
教会に生まれ育った人までいて、
老若男女、いろんな病気や
悩みを抱えている人がいるんです。
そういった人と3ヶ月間共に過ごし、
天理教の教え、人間のほんとうの生き方を学べるところです。

私は、ひきこもりの生活が続いていたこともあって
体力がなく、少しの距離を歩いただけで休んでしまい、
何度も病気になってしまったのです。
その度に、
同じ時期に入った修養科生が、
うちわで扇いでくれたり、
自分の飲みモノをくれたり、
優しい言葉をかけてくれたり、
私の病気がよくなるように、
必死に「おさづけ」を取り次いでくれる姿は、
今まで感じたことのない温かさで溢れていて、
その温かさで、少しずつ少しずつ、
倒れていた心をたすけていただいたのであります。
(おさづけ:病気で身体が思うようにならない人の回復を神様にお願いすること)

修養科では、
病気がある人のたすかりを願って
必死に、おさづけを取り次いでいる人、
その人のたすかりを願って
神殿の回廊拭きひのきしんを
何周も何周もしている人の姿を見て
「あーこれが人々が仲良く助け合う”陽気ぐらし”なんだ」と、
頭ではなく、心から感じました。
そんな周りの「ようぼく」の姿に影響を受けて
「自分がたすかりたい」から
「誰かにたすかっていただきたい」
心の向きが変わり、
クラス、詰所(宿舎)、
出会う人におさづけを取り次がせていただきました。
(ようぼく:神様のお望みになる”陽気ぐらし”に向かって歩いている人)
お道(天理教)の人との出会い、
天理教の教えを学ぶ中で、
「喜べなかった心」から「喜べる心」に変わり

私は、こんなにたくさんの障害がありながらも
薬や病院に頼ることなく、
結構な身体をかしていただいている。
この障害は、
神様が人間をお創りくだされた理由である「世界中の人間が陽気ぐらしをするため」に必要で、この身体は、神様からお借りしているんだ。」と、
すんなり受け入れることができました。
そして、そう思えたとたんに今まで喜べなかった障害を「ありがたいなぁ」
喜びに変わることができたのであります。
決して、私の顔や障害の状態が良くなったわけではありません。
偏見や差別がなくなったわけでもありません。
この、倒れていた心を、明るく前向きに
たすけていただいたのであります。
修養科を通して、パニック障害の症状はでなくなりました。